2015/01/13
表現
2015年も年を明け既に約半月。お正月気分はすっかり抜け、いつもの毎日が繰り返されています。今日のレッスンでは、数人の生徒さんが(書道の学習における)今年の目標を表明されていました。素敵ですね。私は、、、まだしっかり立てていませんが、早いうちにしっかり定めておきたいと思っています。話は変わりますが、先日パリでとても痛ましい事件が起こりました。決してあってはならない事件ですが、事の発端が風刺である事に少し考えさせられるものがあります。風刺をはじめ言論の自由、表現の自由はいかなる状況でも守られなければならないものですが、だからといって何を言ってもいい、何を表現してもいいものでもないものだと常々思うのです。
発信する先にいる人、目に見える人はわかりやすいですが、目に見えない人にも直接的であれ、間接的であれ届いてしまう場合があります。傷付けるつもりはなくても相手が傷付いた場合、誰が悪いのでしょうか。仕方なかった場合も沢山あるでしょうが、発信者が「そのつもりはなかったんだから自分は関係無い」と言ってしまったら、発信する立場としての責任を全うしているとは言えないと思っています。発信する際には沢山の想像力を働かせ、客観的に自分を見つめる事を怠ってはいけません。何気ない表現が誰かに不快感を与えたり、傷付けてしまったら、やはりそれは悪い事をした事には変わりありません。たまに「私はそれをされても気にならない」と反論する場面を目にしますが、それは分別のある大人の行動ではありません。自分の気持ちではなく相手がどう受け止めたかを深く考えなければ、この世は諍いばかりになってしまいます。どんな場合にも思いやりは必要です。
今回の風刺にしろ、ヘイトスピーチにしろ、発信する側が少々傲慢で、想像力が足りないのではないかと思っています。あれは相手を刺激し、煽り、負の連鎖を生むだけです。私は見る者、聞く者に不快感を与える表現が大嫌いです。そして絶対にそのような表現はしまい、と自分に言い聞かせて創作しています。どうしても反論や怒り、悲しみを表現せざるを得ない場合があったとしても、相手の人格や信条は絶対に侵してはならない、、、だから芸術は尊いのです。
今は誰でも表現し、発信する立場となります。自分の言葉や言動に責任を持ち、思いやりを持った行動をそれぞれが持たなければなりませんね。自分の知らないところで誰かを傷付けているかもしれない、という思いを消さずに、美しく表現していきたいものです。


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